アウトサイダーアートの魅力 アール・ブリュットと呼ばれる芸術

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アウトサイダーアートというはみ出し者達の魂の叫び

 

こんにちは!タツノオトシゴです(@Phycodurus3

今回は芸術ネタです。

芸術と言っても色んな表現手段がある世の中ですが、今回は”絵”について。

それも普通の絵やアートとはちょっと一味違います。

皆さんはアウトサイダー・アートというアートについて聞いたことはございますか?

あるいは、アール・ブリュットなど。

恐らく聞いたこともなければ知らないよ、という方がほとんどかと思います。

アウトサイダー・アートとは言ってみれば『はみ出し者達のアート』です。

今回はそんなアウトサイダー・アートについて、アウトサイダー・アートの画集を参考にご紹介します。

 

 

 

 

アール・ブリュットについて

 

まず、アウトサイダー・アートとは何なのか。

そこから切り込んでいきたいと思います。アウトサイダー・アートという総称を説明する前にアール・ブリュットについて語らねばならない(その理由は事項に記載)

アール・ブリュットの定義はこの記事で紹介している画集から引用させてもらうと、

 

「アール・ブリュット」とは、加工されていない、生の芸術という意味のフランス語。

1945年、精神病患者の創作作品を調査していたジャン・デュビュッフェが、これらの創作を命名して考案した言葉である。

その後、精神病者に限らず、美術教育を受けていない人たちが、美術制度の枠の外で作るものを指して用いられるようになる

 

という定義になっている。

つまり元々精神病患者が描いたり作ったりした創作物を総称してそう呼んでいたが、時間を重ねるにつれ、美術教育を受けていない人々の作品も総称してそう呼ぶようになったということである。

ぼくは昔からちょっと異常な人や、狂気を宿した人、一般社会に適応できない人に興味を感じるクセがあるので、こういうのは大好物だ。

このアール・ブリュットと命名したフランス人のジャン・デュビュッフェなる人物が、1976年にアール・ブリュットコレクションなるカタログでアール・ブリュットについて言及している箇所があって、その中でいくつか素敵なことを言っている部分があるのでご紹介しておきます。

本当は全部抜粋してしまいたくなるほど、素晴らしいことが記載されているのだけど、そんなことするわけにはいかないので、一部を切り抜かせていただきました。

 

アール・ブリュットとは、知識、すなわち西欧人がいささか仰々しく「教養」と呼んでいるものとは正反対の立場をとる人々の集まりである。白紙の状態を、既成概念に捉われない状態をよしとする人々の集団なのだ。

アール・ブリュットに属する人々は、いかなる制服も着てはいないし、裁判官や教授といった要職に就いているわけでも、立派な肩書きをひけらかすわけでもない。

彼らは知識階級ではなく、庶民階級の出身者だ。

アール・ブリュットの作品には、人が芸術作品に求めるすべてのもの—燃え上がるような精神的高揚、尽きることのない創意、強烈な陶酔感、あらゆるものからの全き解放—が、著名な芸術家のどんな作品より、はるかに横濫している。だが、そこには狂気も横濫しているのではないかって? もちろんだ。

だが、狂気を宿さない芸術を、芸術と認めるものがいるだろうか。

いみじくもニーチェが言ったように、われわれに必要なのは「頭の中を踊り狂う芸術」だ。

 

 

 

アウトサイダーアートとは

 

では続いてアウトサイダー・アートとは何なのかということなんですが、

アウトサイダー・アートはアール・ブリュットであり、アール・ブリュットとはアウトサイダー・アートなのです。

というのも、アウトサイダーアートの定義をこれまた引用させてもらうと、

 

「アウトサイダーアート」とは、

1972年、ロジャー・カーディナルが『アール・ブリュット』の英語訳として創案。

 

と記載してあります。

つまりアール・ブリュットの英語訳なので、実は意味は両方同じなんです。

現代では英語が公用語として世界的に認知されているので英語の方が我々日本人にもしっくり来る感じですよね。

 

 

アウトサイダーアートの作品ご紹介

 

ここからはアウトサイダーたちの魂の作品を、作家と合わせてご紹介していきたいと思います。

アウトサイダー・アート界では著名な作品と、僕の好みでセレクトしてみました。いずれも画集『アウトサイダー・アート』に搭載されている作品です。

ある者は天涯孤独の中に、また、ある者はその壮絶な人生の中に、アイデンティティと生きた証を残すべく、キャンバスにその情熱をぶち撒けた。

その壮絶な作品群の一部から数点ご紹介します。

 

 

1.カルロ・ツィネリ 1916ー1974 イタリア

 

まずはカルロ・ツィネリという”はみ出し者”の作品を。

 

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

 

独特の色彩と影絵のような人物像が特徴ですが、皆さんはこれを観て何を感じますか?

彼のプロフィールについて触れておきます。

 

カルロ・ツィネリの生涯

・カルロ・ツィネリは、1916年、イタリアのヴェローナ地方の静かな田園地帯に産まれた。

カルロは幼い頃から人一倍思いやりがある優しい子で、妙に孤独癖があり、他の腕白少年達とは違っていたそうだ。

7人兄妹の4番目だったが、彼の家庭はそれほど裕福ではなく、父親は9歳の彼を農場に預けた。そこで19歳まで過ごし、ゆったり流れる田園暮らしがもたらす孤独を楽しみ、幸せな生活だったそう。

転機が訪れたのは19歳の時で、父親は彼を町の肉屋で働かせることに。本当の意味でカルロが社会に踏み込んだのはこれが初めてで、それまで浸っていた「自然」を懐かしんでいたようだ。

そして最初に絵心を示したのもこの頃で、姉妹宛に手製の絵葉書を何通か送っている。

1936年、兵役に就いた彼は前線に送られた。これは非常に激しい試練で、1947年には精神分裂症を発症し、監禁されている。彼が実社会からはみ出した瞬間だ。

1957年、カルロの病室の壁に線刻画が見つかった。レンガで描いたもののようだという。それから病院内のアトリエに通うようになり1969年まで、毎日8時間、熱心に鉛筆を握り続けた。

1971年退院後、肺結核を患い、3年後の1974年にサナトリウム(肺結核療養所)で亡くなっている。

 

というのがカルロの人生だ。

戦争に行くまでは割と幸せな人生を歩んでいた人物のようで、戦争がいかに人の精神を破壊するかよくわかる事例でもあると感じた。

初期の作品の背景は数字で描かれていることが多かったが、晩年は言葉に変わっていった点や、田園地帯を描いたような作品が減り、無機質で影絵のように変化していく点はおもしろい。

隔離された環境でこれだけ現代的な作品を産み出したのは本当に驚きます。

 

 

2.マッジ・ギル 1882ー1961 イギリス

 

2人目の”はみ出し者”はマッジ・ギルというイギリス人の女性。

彼女の生涯は痛ましく悲しい物語だ。

彼女の作品を観ればそれが観て取れる気がするのは僕だけだろうか?

 

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

 

彼女の作品を観た時はさすがに狂気を感じた。

渦巻く感情と狂気を書きなぐったような作品が多いように感じる。

彼女の作品のほとんどに見られる共通のモチーフとして人間の顔がある。彼女がこれらの作品を描くことになった生い立ちと生涯を紹介しておきます。

 

マッジ・ギルの生涯

・マッジ・ギルはイギリスのロンドン郊外の町で人生のほとんどを過ごした。

ヴィクトリア時代特有の格式を重んじる家庭に私生児として生まれたため、母親は彼女を隠さなければならず、家族の協力を得て、ユダヤ協会の地下室に彼女を預けたようである。

この秘密の生活がどれほど続いたかは定かではないそうなのだが、7歳の頃に撮られた写真が1枚だけ残っているそうだ。

1890年頃、一家は大きな家に落ち着く。裕福で世間の評判もよかったようだ。しかし、近所の目からこの父無し子を隠しきれないと判断した家族は9歳のマッジをロンドンの孤児院に預けた。

その後孤児の集団として大西洋を渡り、しばらくカナダのトロントで生活した後の1903年頃、病院の看護婦として再びロンドンに戻り、叔母の家に身を寄せる。

1907年叔母の息子と結婚し、3人の子供をもうけるが、三男が流行性感冒で命を落とし、待望の女の子だった第四女は死産。母体はかろうじて死を免れたが、左目を摘出し義眼を入れるという不幸が重なる。

この頃から降霊術に傾倒し始めたギルは、やがて<マイニナレスト>という名の霊に励まされて絵を描くようになる。

当時を振り返ってギルはこう語っている。

『私が絵を描き始めたのは1919年のことでした。あらゆる種類の芸術的作品を制作しなくては、という衝動に駆り立てられたのです。自分には芸術的才能があって、それが表現を求めているのを感じました。最初は編み物でした…..。

次は霊感による文章を山ほど書きました。ほとんどが聖書に関係するものです。その次にキャラコの布に大きな絵を描きたくなり、これがやめられなくなって、毎日、20枚もの絵を描きました。この間精神状態はずっと”正常”でしたし、”精霊”の気配を感じることもありませんでした。インスピレーションがどんどん湧いてくるのを感じるだけです。

目に見えない力に導かれているという感じはいつもありました。その正体が何なのか、説明することはできませんでしたが。』★Roger Cardinal Outsider Art (London 1972)

 

 

幼少期から家族に隔絶された経験は恐らく彼女に大きな傷を残したんだと感じます。

さらに自身の眼を失ったり、子供を亡くしたりと踏んだり蹴ったりの人生です….。

彼女の描く人面は確かに現世の肉体を持った人間というよりは、あらゆる人間の”念”のように見えてなりません。

辛い生い立ちがこのような才能を目覚めさせたのか、あるいは本当に霊による力なのか。

いずれにしてもこれだけ狂気をぶつけた作品も世の中あまりないと思います。

ただ、あんまり長時間は眺めてられません僕は。

 

 

3.アドルフ・ヴェルフリ 1864ー1930 スイス

 

3人目のアウトサイダーはアドルフ・ヴェルフリ

このヴェルフリなる人物はスイスで誕生した。例により、彼の生い立ちを追っていこう。

 

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

 

アドルフ・ヴェルフリの生涯

・アドルフ・ヴェルフリは、1864年、スイスのエメンタール渓谷の人里離れた村に生まれた。

8歳まで首都ベルンに住んでいたが、1872年に生まれ故郷に帰る。母親は間もなく死亡。都会育ちの少年に待っていたのは、孤児としての厳しい生活だった。

農場から農場へとたらい回しにされ、夏は牧童として、冬は木こりとして働き、飢餓に悩まされることも度々といった状態で、学校にもほとんど行けない暮らしだった。

1880年、農家の作男として雇われた彼は、やがて隣家の娘に恋をする。

これを知った娘の両親は、ただちに2人の仲を引き裂いた。

恋人との仲を情け容赦なく裂かれたことが彼の心理に耐え難い重圧を加えた。彼はこの地を捨て、別の働き口を求めて首都ベルンに出る。

しかし、どの仕事も長続きせず、首都周辺を転々とするうちに再び恋をするが、今度の相手は売春婦だった。

性病を移されたのにも関わらず、この女と婚約するが、結局破局に終わる。

その後幼女◯姦未遂を繰り返して刑務所入りとなった彼は、釈放後、再び少女◯姦未遂で逮捕され、1895年、ベルンのワルドー精神病院に送られた。

医師たちは、ヴェルフリは責任能力のない精神疾患者であり、社会にとって危険な人物だという診断を下す。

以後、終生ワルドーに収容されることになる。

他の患者や看護人に対する彼の態度があまりにも粗暴なため、病院側は彼を20年近く独房に隔離せざるをえなかったという。

そんなヴェルフリが絵に専念するようになったのは1899年のこと。

彼は執筆に、絵に、作曲に専念した。

病院から支給される画材では足らず、いつも紙や鉛筆をねだっていたが、医師たちが彼の作品に関心を寄せるようになると、画材も潤沢に与えられるようになった。

こうして彼は膨大な作品を生み出していった。

 

アドルフ・ヴェルフリ、彼の人生もまた不幸と悲しみに満ちている。

やはり幼少期の体験というのはその後の人生に大きな影響をもたらすのかもしれませんね。

僕が彼の作品を観て感じるのは、『俺は囚われていて、動けないんだ』という心の叫び。

四肢があっても自由がなく、監視・管理された収容所の生活と、これまでの人生からの解放。それが彼の描きたかった世界なのではないかと感じます。

ヴェルフリの作品の特徴として大きな要因である音楽も気になります。

彼の作品の仲には音符とスコアらしきものがよく挿入されています。一体どんな旋律なのか気になります。

彼の作品を観るたびに、クラシックの詳しい人、誰か弾いてくれないかな〜とか考えてしまいます。

 

 

4.ヘンリー・ダーガー 1892ー1973 アメリカ

 

最後はアメリカのヘンリー・ダーガーという人物。

どんな分野でもその世界の”象徴”、”代名詞”になってしまうような才能を持った、まるで神のような人物がいるものだ。

アウトサイダー・アートの世界にもそんな代名詞的な存在はいて、『アウトサイダー・アートと言えばヘンリー・ダーガー』と言われているくらいヘンリー・ダーガーは現在では著名なアーティストだ。

ダーガーの名前と作品が知られたのは彼の死後というからまたおもしろい。

この人を語らずしてアウトサイダー・アートは語れないというくらい、彼の”はみ出し者”っぷりは異質だ。

彼の奇妙な人生と作品をご覧下さい。

 

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

求龍堂出版『アウトサイダー・アート』より抜粋

 

ヘンリー・ダーガーの生涯

・ダーガーは1892年アメリカ、シカゴに生まれる。4歳になる直前に、妹の出産が原因で母親が死ぬ。

妹はすぐに里子に出され、ダーガーは父親に育てられるが、彼が8歳の時、体を悪くした父親は、息子の世話ができなくなり、ダーガーは児童施設に預けられる。

後に、知的障害があると誤診されたダーガーは知的障害児の施設に送られ、思春期の多感な時期を劣悪な環境で過ごす。

1909年、父親の死を知ったダーガーは施設を逃げ出してシカゴに戻る。彼が19歳の時だった。以後、市内の病院で清掃や皿洗い、包帯巻きをしながら生計を立てる。

1932年から1973年までの40年間、ダーガーは一間のアパートを借りて住んでいた。近くの教会の司祭がたまにやってくる以外、彼の部屋を訪ねる人はおらず、天涯孤独だった。

ダーガーが亡くなった後、部屋を片付けようとした家主が、そこにとんでもないものを発見した。

 

『非現実の王国におけるヴィヴィアンガールズの物語、あるいは子供奴隷の反乱に起因するグランデコ対アンジェリニアン戦争と嵐の物語』と長々しいタイトルがついた空想物語だ。

 

タイプライターで清書した手製の本が7冊、手書きの原稿が8束、ページ数にして、15,145。

さらに物語を図解した挿絵が数百見つかる。

 

物語のコンセプトは”反抗”だ。

主人公は愛らしい7人姉妹ヴィヴィアンガールズ。

この少女たちが、子供たちを奴隷にして虐待する残虐な大人の男たちグランデリニアンを相手に壮絶な戦いを繰り広げる。

というもの。

少女たちはダーガーの妄想によって両性具有のような存在に書き換えられ、自分の人生に起きる不条理や悪に対して神が何もしようとしないことへの怒りから、神を見限り、現実ではない世界でその解決方法を見出そうとした。

自分には絵の才能がないと信じ切っていた彼は新聞や子供用の雑誌などから集めた図版をトレースして挿絵を作っていた。

人間社会から離れた内面世界で、ダーガーは孤独を培養させ自分だけの国を作ろうとしたのかもしれない。

 

 

ダーガーという人の生前の姿は近隣の人間や、朝のミサや散歩で見かけた人間がいる以外ではほとんどわかっていない。

自発的に人に話しかけることはほとんどなく、絆創膏を継ぎ接ぎしたメガネをかけ、訪ねてくる司祭さえ誰かよくわかっていない様子だったという。

完全なる変人、アウトサイダーである。

彼の死後に家主のネイサン・ラーナーが彼の一室に残されたガラクタの中から、ダーガーが生み出した物語を発見するまでヘンリー・ダーガーは世間では誰も見向きもしない変人にすぎなかった。

自分自身写真家であったネイサンは、ダーガーが残した挿絵入り物語『非現実の王国で』の美術的価値を見抜き、ダーガーの遺品と部屋を20年に渡って保存した。

この現代の倫理観からは大きくはみ出してしまった作品を生涯に渡って生み出したダーガーという人物についても、もし、発見していたのがネイサンでなかったなら、ダーガーは歴史に登場することなく、ただの変人の1人として死後も名もない存在として片付けられていたのかもしれない。多くの平凡な人々がそうであるように。

孤独や怒りといった負の感情は、時に凄まじいエネルギーを生むようだ。

ダーガーの『非現実の王国で』を取り上げている奇特な動画を発見したので、興味を持った方はご覧になってみると良いかもしれませんよ。

 

 

 

 

☑️まとめ

 

いかがでしたか?

今回はアングラでマイナーなアートを取り上げてみました。

記事中に出てくる写真は「アウトサイダー・アート」という画集から抜粋しました。また、作家の紹介にも文を参考にした箇所が多数ございます。

非常に素敵なアート本なので手に取って世界の”はみ出し者”たちの世界を味わうことをオススメします。

アウトサイダー・アートは中々展示会を見かけることがないので、こういった本を持っておいて忘れた頃に見返すと新たな発見があったりします。

いつか展示会に足を運んでみたいもの。

社会に居場所がない、生きづらい、なんだか疲れてしまう、そんな方は何か共鳴するものがあるのかもしれません。

作家のバックグラウンドも様々で実におもしろいです。

堅牢な造りの美術館で腕を組みながら難しい顔をして絵を眺めることだけが芸術ではないと、あるいは、それだけが芸術ではないと気づかされます。

はみ出し者万歳

 

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